その日、リスボンの街は紅色に染め上げられていた。

一般的に「赤」という色は、情熱や活力といったものを想起させる。燃えたぎる炎、灼熱の太陽、そして私たちの身体に流れる血液―。それらのどれもが生に対する躍動的なイメージを持っている。

しかし、その日のリスボンを包んでいたのは、まぎれもなく悲しみの赤だった。そう、ポルトガルサッカー史上、最も偉大なプレーヤーが亡くなったのである。その男の名は、エウゼビオ。かつて、“黒豹”と呼ばれたポルトガル国籍の彼は、強烈なシュートと驚愕の身体能力を兼ね備え、得点を量産し続けた。

レアル・マドリーの5連覇でスタートした当時の欧州チャンピオンズカップ。レアル・マドリーの直後に黄金期を迎えたベンフィカであり、以後5年間、エウゼビオ擁するベンフィカは4度の決勝戦に進出する大躍進を見せ、エウゼビオの名は欧州中に轟いた。

ポルトガルのサッカー少年たちの眼差しを、エウゼビオは一身に集めたのだ。黄金世代と呼ばれたマヌエル・ルイ・コスタやルイス・フィーゴはもちろん、今をときめくクリスティアーノ・ロナウドだって一度はエウゼビオを憧れたのだろう。何せ、エウゼビオ以来、ポルトガルにはスター選手が存在しなかったのだ。W杯で得点王になったエウゼビオの存在は、同国のサッカー少年たちにとっては特別だったに違いない。

そんな英雄が突如亡くなった。享年71。エウゼビオは度々、所属していたベンフィカの試合に観戦に訪れていた。その様子はカメラで抜かれることも多く、つい先日まで元気な様子を覗かせていた。あらゆるメディアが彼の急逝を伝え、世界中のサッカーファンが喪に服し、関係者は悲しみのコメントを残した。

ポルトガルが生んだカリスマ、ジョゼ・モウリーニョもその1人だった。

歯に衣着せぬ言動で時折メディアを騒がせるモウリーニョ監督。

しかし、ダービー・カウンティとのFA杯を終えた記者会見での彼は、実に饒舌だった。そして、その言葉はきわめて簡潔でありながら、かつてのレジェンドに対する想いが滲み出ていたのであった。

ジョゼ・モウリーニョ監督(チェルシー)

「エウゼビオはサッカー史を振り返っても、最も偉大なフットボーラーの1人である。特に、私世代の人や私より年配の人にとってはね。

しかし、ポルトガルという国にとって彼は、それ以上の存在なんだ。人種もクラブも政治的思想も関係ない。ポルトガル人にとって、エウゼビオはエウゼビオでしかない。きっとここ数日の間で多くの人がエウゼビオの写真を目にすることになると思うが、彼が私の母国にとってどれほど偉大な存在なのかが分かるだろう。

私は小さい頃からエウゼビオを知っている。彼は、私の父親と対戦したんだ。父とは代表チームで一緒にプレーしていた。

小さい頃、エウゼビオに会ったことがあるんだ。私と彼は誕生日が1日しか違わなくてね、彼が1月25日で私が1月26日なんだ。

少年の頃は、彼は每年私にユニフォームやサッカーボール、スパイクをプレゼントしてくれたんだ。

私は数ヵ月間、ベンフィカに従事していたことがあるが、彼に最後に会ったのは2012年にウクライナで行われた欧州選手権の頃だった。心臓の手術を行った直後のことだった。

しかし、彼はピッチ上でもピッチ外でも人生を楽しんだ。彼の急死が悲しいかって?私には朝起きるほうが辛いことだよ。なぜなら、彼のような男は永遠だからね。歴史は変わらないし、歴史は彼を死なせやしない。

私はエウゼビオのことをよく知っている。彼は人生を謳歌した。そして、彼は偉大な遺産を残してくれた。どうか、安らかにお眠りください」

エウゼビオが亡くなった翌日、世界中のスタジアムで黙祷や拍手が行われた。マンチェスターのオールド・トラッフォードではポルトガルの国旗がスタジアムに掲げられ、マドリードのサンティアゴ・ベルナベウでは、彼の功績を称える動画が再生された。その試合、2得点をあげたクリスティアーノ・ロナウドは、自身のゴールをエウゼビオに捧げるとコメントを残している。

そして、エウゼビオに熱狂した街リスボンでは、信じられない光景が待ち受けていた。

エスタディオ・ダ・ルスの周辺に建立されたエウゼビオの銅像は、ベンフィカカラーのマフラーで覆われ、エウゼビオはエスタディオ・ダ・ルスのピッチの上でサポーターたちに別れを告げた。

「ルス」とは光を意味する。およそ半世紀間、ポルトガルという国の光であり続けたエウゼビオにとって、これほど相応しい別れの場はなかったことだろう。

ポルトガルが生んだ真のレジェンド、エウゼビオ。その魂は決して朽ちない。

エウゼビオ


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