――当時の広島ユースには2つ上の先輩にMF川辺駿選手(スタンダール/ベルギー)、1つ上にはDF荒木隼人選手、同期にはFW加藤陸次樹選手、2つ下の後輩にはGK大迫敬介選手やMF川村拓夢選手、満田誠選手など、現在の日本代表に招集される選手もいました。
名前を挙げた選手だけでもプロの世界でのキャリア形成には様々な形がありますね。
「僕もそうですけど、選手それぞれに分岐点がありますからね。広島の育成が凄いのは、プロの世界で活躍する選手が同世代だけでもこんなにも多くいることです。ユースからトップチームへ昇格できなくても、ここ数年は大学経由(荒木・加藤・満田)で戻ってくる選手も多くなっていますし、他のクラブ(川辺・川村・加藤)に行って活躍する選手もいます。
今こうして振り返ってみても、選手個々の質も高かったと思います」
――広島ユースは所謂「ミシャ式」(※)と呼ばれる可変システムを採用していました。攻撃時は[4-3-3]、守備時は[5-4-1]へと変化するため、シャドーなら攻撃時にトップ下やインサイドハーフ、守備時はサイドハーフなど、少なくとも2つ以上のポジションを役割として求められます。
※「ミシャ式」:ミハイロ・ペトロヴィッチ監督(コンサドーレ札幌監督)が広島を率いていた2008年頃に完成し始めた戦術。監督の愛称から名付けられた。
「ユースの時はFWやボランチでもプレーしていましたが、主にシャドーでのプレーが多かったですね。
ユースもトップチームが採用しているシステムでプレーしていましたし、トップと同じトレーニングをしたり、トップに呼ばれてトレーニングもしていましたから、そこで鍛えられたなと思います。それがいろんなポジションでプレーできている現在にも繋がっているように思います」
――ところで、3年生の時には2つ下のGK大迫選手とMF川村選手がすでに1年生で主力としてプレーしていました。体格的にも大柄な彼らは先輩の言うことをちゃんと聞いてくれたんですか?(笑)
「当時の僕は副キャプテンとしてゲームキャプテンもしていましたが、高校1年生から見た3年生って怖い存在というか。彼らは素直に聞いてくれていましたけど、怖かったんじゃないですか?でも、僕よりムツ(加藤選手)のほうが雰囲気的に絶対に怖かったはずですよ(笑)」
2016年からトップチームに昇格した長沼だったが、当時の広島は現日本代表の指揮官・森保一監督が率いて4年で3度のJ1制覇を果たした黄金期の真っ只中。
特にシャドーのポジションではユースの大先輩である森崎浩司(現広島アンバサダー)や野津田岳人、優勝の立役者である柴崎晃誠(現広島育成部コーチ)のようなMFだけでなく、2016年のJ1得点王に輝くピーター・ウタカ(現ヴァンフォーレ甲府)や現日本代表の浅野拓磨(現ボーフム/ドイツ)のようなFWも競争相手となる。
「広島にはプロになるために行きましたし、1年の頃からトップの練習やキャンプにも参加できていたので、順調に行けば昇格できると考えていました。だからこそ、自分の場合は大学進学も全く考えていませんでしたし、プロだけを見ていました。
もちろん、その頃のトップチームがJ1で優勝する姿も間近で見ていました。実際にトップ昇格が決まった時も『やってやるぞ』と覚悟も決まっていましたね」
――ただ、トップ昇格後の1年半は一度もリーグ戦での出番がありませんでした。気になったのは長沼選手が練習でもウイングバック(WB)に固定されていたことでした。自ら志願したのですか?
「自分では一度も言ったことはありません。正直、やりたくなかったですよ。特に1年目は練習から、『やりたくないのに、なんでこのポジションなの?』と思ってやっていました。
だからこそ、ポジションの件も込みで2年目の夏にレンタル移籍を志願しました。若かったですね(笑)」