欧州には「違う競技」のサッカーがあった
FC KOREAで研さんを積んだ禹は、夏に欧州へと飛び立った。行先は東欧のモンテネグロ。日本とは違う激しい肉弾戦を強いられる過酷なリーグで適応していき、新天地で活躍した。そして禹は自身のルーツである韓国でもプレーした。
―モンテネグロ1部のOFKペトロヴァツに入団した経緯を教えてください。
当時レイソルユースの先輩が東ヨーロッパでプレーしていたので、その人伝えで欧州クラブへの移籍を斡旋している会社に頼んで行きました。
―リーグやクラブのレベル、日本との違いはありましたか。
違う競技をやっている感じがしましたね。技術は日本のほうが上ですけど、評価されるポイントが全く違います。何より兎に角相手は大きいし、重戦車のように突っ込んできますからね(笑)。高い身体能力が要求されますから、そこで生き残れるかで悩まされました。プレーしていてハングリーさや図太さといった経験を得られたことは、何よりもでかかったですね。
―具体的に言うと球際やデュエルの面でしょうか。
そうですね。1対1の重要性やデュエルをモンテネグロで学ぶことができました。例えば自分がミスして失点したら、もう次から使われません。だから自分がミスからボールを奪われたり、ドリブルで抜かれての失点はできません。その重みは、ケタ違いにありました。試合では冷や汗をかくぐらいでしたけど、そういう部分は今でも大事にしています。
―欧州だと試合に負けると犯罪者扱いされるとよく聞きますけど、実際はどうでしたか。
負けたときは当然、後ろ指を指されますよ(苦笑)。例えば試合に勝ったあとにレストランへ行けば、豪勢な料理が出てきます。でも負けたときはパンの耳しか出てこなかったんですよ(笑)。すごく極端ですよね。パンのふわふわしたところは誰が食べたんだって(笑)。
―パンの耳は面白すぎますね(笑)。モンテネグロで1シーズン過ごしたあとに、当時韓国2部の大邱FCに移籍しました。
僕の中でUEFA CLやELに出ると決めて欧州へ行きましたが、予備予選に出られる順位ではありませんでした。ここに長いこといても仕方がないと思い、区切りをつけて東南アジアなどでチームを探していたら大邱FCからオファーが来ました。
―自身のルーツがある国のクラブからオファーは運命的ですね。
そう思います。東南アジアも選択肢にあった中で、自分のルーツがある韓国からオファーが来たときは運命的でした。日本で生まれて育ったけど、韓国はどういう国で、どういう人がいるのか興味がありました。
―韓国では1年目2部でプレーして1部昇格に貢献し、2年目は1部で17試合出場。Kリーグは激しいイメージがあります。
1対1のデュエルもそうですし、自分から失点したら使ってもらえないのでシビアなリーグでした。それでも自分がヨーロッパで得たものを生かせることができました。特にKリーグクラシック(現Kリーグ1、1部相当)は楽しかったですし、やりがいもありました。チャレンジャーとして挑めましたね。チームはサッカーに集中できる環境で、日によっては3部練習がありました。サッカー漬けの日々を過ごせました。
―韓国での生活やカルチャーの部分で日本と違いはありましたか。
韓国人は集団行動を好んでいて、みんなで成し遂げようとします。日本人はマイスペースを大事にする方が多いですけど、韓国では何をするにしてもみんなで行動していましたね。
―韓国で一番印象に残っているエピソードはありますか。
そうですね。韓国に来てから2年目に500万円の詐欺被害に遭ったことですかね(苦笑)。
―えっ、えええ!!!?マジですか(ドン引き)。
当時練習生で来ていた子がいて、仲よくしようとコミュニケーションを取っていたんですよ。ある日大邱からソウルへ移動した先のホテルで、練習生が「コンビニへ行ってくるわ」と外出したんですよね。それから僕がATMに行ったら引き出せるお金がなくて(苦笑)。
―それは死活問題ですね…。
銀行に問い合わせたら練習生の口座に送金されていました。その後、練習生の親御さんのところへ行って全額回収しました(笑)。
―行動力が凄すぎる。
僕がお金を引き出すときに、練習生が後ろから暗証番号を覗いていたみたいなんですよ。回収するのに大変でしたよ(笑)。