9月27日、衝撃的なニュースが飛び込んできた。日本フットボールリーグ(JFL、4部相当)に所属するソニー仙台FCが今年末で活動を終了し、JFLを退会するという内容だった。

これまでアマチュア最高峰のJFLで優勝1度の同クラブは1968年創立から、実業団チームとして全国トップクラスのクラブとしてアマチュアサッカーをリードしてきた存在だった。

そして名門実業団チームの活動終了により、現役引退を決意した選手がいる。

今季キャプテンマークを巻くMF吉野蓮主将は2020年に仙台大から同チームへ加入し、これまでソニー仙台FC一筋で戦い続けてきた男だ。

まだ27歳と選手としてこれからという時期に、なぜチーム活動終了とともに現役引退を選択したのか。

吉野にソニー仙台FCで戦い続けてきたこれまでと揺るがない決意を聞いた。

(取材・構成・撮影 高橋アオ)

高校サッカー選手権に憧れて山形へ

千葉県出身の吉野は市原市立五所小時代に市原八幡FCでサッカーを始め、市原市立八幡中進学後は1年間三井千葉サッカークラブ(現ヴィットーリアスFC)でプレーし、2年次からは中学サッカー部に所属して競技に打ち込んだ。

高校サッカー選手権出場に憧れを抱いていた吉野は、高校進学と同時に東北の地へと渡った。

――千葉から山形の羽黒高に進学した理由や経緯を教えてください。

「まず『高校サッカー選手権に出場したい』という夢を小学生のときから抱いていました。文集に『全国高校サッカー選手権大会に出場する』と書いていました。『プロサッカー選手になる』ではなく、『選手権に出る』という夢がありました。

選手権に出ることを考えたときに、当時は千葉県内の強豪校に行くのが厳しく、県外に目を向けて進学先を考えていました。その中で羽黒高は本街直樹監督が国士舘大の出身でした。自分の(市原市立)八幡中サッカー部の顧問の先生も国士舘大出身だったので、先生同士の国士館大つながりで練習参加の機会をもらえました」

――他の高校は考えになかったのですか。

「なかったことはないですが、県外に行きたかったんです。寮がある高校を考えていました。

全国大会に出られそうな強豪校を中心に考えていた中で、山形の羽黒高は雪もあってサッカーをするのに厳しい環境でしたけれど、あえて厳しいところで自分を追い込んで、私生活、サッカーを含め、親元を離れて頑張る覚悟を持って羽黒高に決めました」

――羽黒高での3年間を振り返っていかがでしたか。

「結局全国大会に出られたのは1回だけでした。高校3年次の夏、インターハイに出場。全国大会出場はそれっきりでしたね。だからインターハイ出場は『すごくうれしかった』といまでも覚えています。3年間寮生活をして、15歳で親元を離れて初めて外で暮らし、寮生も最初は知らない人たちの集まりでした。苦労はしましたけれど、先輩や同期の仲間のお陰で3年間を有意義に過ごせました」

――仙台大に進学した経緯を教えてください。

「羽黒高の顧問の本街直樹監督にいくつか大学を紹介していただいた中で、『自分に合うところ。自由にサッカーをして、自分の考えを持ってサッカーができるよ』と仙台大をお勧めされたので決めました」

――国士舘大などの選択肢はありませんでしたか。

「もちろん考えました。ただ、国士舘大でサッカーをして自分が試合に出ているビジョンが見えませんでした。これも高校のときと同じ考えですが、全国大会に出て、自分が試合に出ることに常にフォーカスしていたので仙台大に決めました」

――なぜ大学でもサッカーを続けたいと思ったのでしょうか。

「それは高校で選手権に出られなかったからです。高校サッカー選手権に出ることが小さいときからの夢、目標というか、追いかけていたことでした。それが達成できずに3年間を終えてしまって、不完全燃焼のような『もっとやりたい』、『まだやれる』、『もっと上を目指せる』という思いが自分の中にありました。

仙台大の練習に行ったときにJクラブユースの子たちと練習で一緒になりました。もちろん技術の差はありますが、そこは運動量や自分の持ち味の球際の強さや守備面で補えると感じました。ここに飛び込んでより上を目指したいと思いました」

吉野と同郷の元日本代表MF長澤(左)

――なぜ選手権に憧れていたのですか。

「選手権は自分が中学生のときに千葉県の予選決勝で八千代高の米倉恒貴くん、長澤和輝くんが活躍していました。長澤くんは地元がほぼ一緒で、三井千葉SC出身です。自分は三井出身(中学1年間のみ所属)です。

長澤和輝くんの八千代の試合を観て『すごい』と思いました。この大歓声の中でやりたい。特に記憶に残っていた試合が八千代高の選手権で、小中とずっと『選手権に出たい』という思いがありました」