「日本サッカーの父」と呼ばれるドイツ人のデットマール・クラマー氏が17日、バイエルン州のライト・イム・ヴィンクルで亡くなった。90歳だった。

クラマー氏は、現役時代はヴィクトリア・ドルトムント、ゲルマニア・ヴィースバーデンなどでプレー。怪我により現役引退後は、指導者としてバイエルン・ミュンヘンをチャンピオンズカップで2連覇させるなど30年以上のキャリアを誇り、海外では「サッカーの教授」「ナポレオン(161cmと小柄なことから)」と呼ばれていた。


『Bild』より。ドイツのユース代表に若き日のフランツ・ベッケンバウアーを呼んだのは、クラマー氏だった。

1997年にタイ代表を指揮したのを最後に監督業から身を引いたものの、2005年に第1回日本サッカー殿堂入り。2011年にはドイツサッカー連盟(DFB)からDFB名誉賞を受けている。最近は病気で療養をしていたという。

1960年、日本代表の監督に就任すると、インサイドキックなど基礎から徹底的に鍛え直し、1964年の東京オリンピックではベスト8入りを果たした。1968年のメキシコ五輪では、アドバイザー的役割を果たし日本の3位入賞・銅メダルに引き続き貢献。1969年、千葉で開催された第1回FIFAコーチングスクールでは、スクールマスターを務めた。国内リーグ創設、指導者の育成などは、クラマー氏の提言によるものであった。

ここでは、各サイトに掲載された故人を惜しむ言葉を掲載したい。

カール=ハインツ・ルンメニゲ(バイエルン・ミュンヘンCEO)

「私にとって、彼は父親のような友人であった。特に、若い時は私にとって最大の影響を受けた。私は、サッカー選手として非常に成功したが、かなり彼に感謝している」

ヴォルフガング・ニースバッハ(ドイツサッカー連盟会長)

「我々は、偉大な指導者、偉大な人物を失った。世界中のサッカー大使でした。彼はサッカーの専門的な知識だけでなく、陽気で、かわいらしく、優しい人間だった。そのために、世界中で彼は高く評価されています。私は、彼の人生、仕事に大きな敬意をもっている」

また、『JFA』でもお悔やみの言葉を掲載している。一部を下記に引用した。

大仁邦彌(日本サッカー協会会長)

「日本サッカーの近代化は、クラマーさんによってもたらされたと言っていいでしょう。私も現役時代にクラマーさんの指導を受け、基本を徹底的に教えられました。特にインサイドキックを繰り返し指導されたことが懐かしく思い出されます。クラマーさんのお陰で日本サッカーリーグ(JSL)が創設され、それがJリーグにつながりました。クラマーさんがいらっしゃらなかったら今の日本サッカーの発展はなかったでしょう」

川淵三郎(日本サッカー協会最高顧問)

「クラマーさんと初めてお会いしてから55年。サッカーだけでなく、人生そのものを教えてくださった恩師で、今の僕があるのもクラマーさんがいてくれたからこそです。これまでも何か気づくと必ずアドバイスの電話をくださり、その度に勇気づけられました。息子さんを亡くされたときに初めてクラマーさんの涙声を聞き、僕は「日本に僕たちクラマーさんの息子が大勢いるんだから、いつでも会いに来てください」と伝えました」

最後に、「言葉の魔術師」と呼ばれたクラマー氏の名言を『Sport1』よりどうぞ。

デットマール・クラマー

「サッカーは、空間と時間のゲーム」

R.I.P

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