転機は高校2年の夏だった。育成年代日本代表候補に選出されるほどの技術が青森山田高では通用しなかった。そこで黒田剛監督、正木昌宣コーチのアドバイスもあり、豊富な運動量を生かしたプレースタイルに活路を見出した。無尽蔵のスタミナで神出鬼没に現れ、そのフリーランニングは攻守の潤滑油となった。同期の高橋壱晟は「理久のプレースタイルは気持ちが伝わってくる。近くにいて刺激をもらえる」と闘志あふれるプレーはチームの士気も上昇させた。

高校サッカー界屈指の黒子役となった嵯峨は、高円宮杯JFA U-18サッカープレミアリーグファイナル制覇と全国高校選手権初制覇と高校2冠に大きく貢献した。嵯峨は「やり続けてきたことが実った。この期間はサッカー人生で一番充実していた」。大雪の中サッカーに励むこともあった。厳しい環境で勝利だけを見据えて走り続けた背番号8は、埼玉スタジアム2002の中心で鳴りやまない歓声を受けながら高校サッカーを終えた。

高校卒業後は東北の名門仙台大へ進学。高校では成し遂げられなかったプロクラブ入団を目標に新天地へと渡った。大学でもその圧倒的な走力で存在感を見せ、1年から定位置を確保した。

1学年上にはFW松尾佑介(横浜FC)、同期には2016年全国高校総体を制したGK井岡海都(市立船橋高卒、ベガルタ仙台内定)らとともに研さんを積んだ。だが大学では高校のように思い描いた成績を挙げることができなかった。「総理大臣杯、インカレでは関東、関西の強豪といい試合はできるけど、勝ちきれなかった」。

3年になって主将に就任し、天皇杯宮城県予選決勝でアマチュアの強豪ソニー仙台を破り、本選1回戦では自身が入団するいわきFCを立てて続けに破った。2回戦では当時J2の横浜FCと熱闘を繰り広げて1-2で惜敗した。「天皇杯では横浜FCと戦うことができて充実感があった」と振り返った。

インカレ初戦は1ゴール1アシストの活躍で関西勢の桃山学院大を3-0で撃破するも、2回戦は中央大に1-2と敗退した。それでも今まで破ることができなかった関西勢に一矢報いた。天皇杯の結果もあり「Jリーグクラブに行く道筋は何となくイメージができた。大学最後の年は結果を残してプロになる」と胸中にあったという。だが描いていた青写真と日常は未曾有のパンデミックによって崩れ去っていった。