新型コロナウイルス感染拡大の影響により、全世界が混乱に陥った。出場を予定していたデンソーカップチャレンジが中止に追い込まれた。例年プロクラブのスカウトが多く来場する機会を奪われた嵯峨は、発表を聞いて30分ほど机に突っ伏すほど落胆したという。さらに追い打ちをかけるように仙台大サッカー部は部活動停止を発表し、約3カ月間サッカーをプレーできなくなった。続いて、大学日本一を争う総理大臣杯の中止も発表された。

「すぐには切り替えることができなかった。部活も停止して、大好きなサッカーができなくなった。それからやる気が起きないというかスイッチが入らなくて、どうすればいいんだって…」。大学最後の年でサッカー人生最悪の時期を過ごしたが、ふさぎ込んでいる暇はなかった。自身の夢をかなえるために再び歩みだした。

二度目の“モデルチェンジ”

嵯峨はテーマを持って大学ラストイヤーに臨んでいた。これまでの黒子役に徹するスタイルからの転換だった。強力無比のアタッカーが多くいた青森山田高では、豊富な運動量で味方をサポートするスタイルがはまっていた。仙台大では絶対的エース松尾の存在もあり、プレーが陰ることはなかった。

だが昨季は松尾が特別指定選手として横浜FCに帯同することが多くなり、ともにプレーする時間が激減。チームは圧倒的な個の存在を欠き、常勝だった東北学生リーグで苦戦を強いられた。「自分の売りは守備をさぼらない走りだったけど、いざ攻撃だとインパクトを残せなかった。(大学)4年は自分が得点源にならないといけない」と決意。黒子役から得点源となる主役へのプレースタイル変更は大変苦労した。多い時には1日400本以上のシュート練習をすることもあったという。

その中で、軸足の位置を調整し、インパクト感覚を自己分析するなど決定力の向上に努めた。さらに自粛期間中は海岸で砂浜ダッシュを繰り返し、コンディションの調整も怠らなかった。「シュート練習は小さい発見と改善を繰り返した。ただやるだけではなくて、考えて振り返りながら練習してシュートが徐々に良くなっていった。砂浜で走ったことでメンタルも鍛えることができた」。サッカーができないなら、今できることを全て出し切る覚悟で鍛え続けた。