期限付き移籍で学んだ経験
川崎での公式戦出場が皆無だったタビナスは、出場機会を求めて2019年にFC岐阜、翌年はガンバ大阪へと期限付き移籍した。岐阜では挫折、G大阪で成長の手応えを得た。
――プロデビューしたFC岐阜時代を振り返っていかがでしたか。
FC岐阜は移籍したシーズンに降格していまもJ3なんですけど、俺が普通に活躍していたら多分降格していなかったです。苦しいときに誰かが引っ張れなかったというか、プレーで示せなかったからこその結果だったと思います。
そのときはなにも学んでいなかった。岐阜だったら「軽くやっても試合に出られるだろう」といった自分の甘さがありました。
その年は(リーグ戦で)8試合しか出られなくて、「なんで俺は出られないんだよ」と。ベクトルが自分じゃなくて監督やチームに向かってしまっていたことで、8試合しか出られなかったと思っています。
――ガンバ大阪に移籍した経緯を教えてください。
高校のときに松波(正信)さんからオファーをいただいていて、そのときの強化部(※アカデミーダイレクターとの兼任で強化アカデミー部長)が松波さんでした。詳しく分からないですけど、松波さんが「アイツどうしているんだ?燻っているならウチで…」と話していたようです。
最初はトップの選手として獲っていただいたんですけど、「もしトップで出られなくてもウチはU-23があるから試合はコンスタントに出られるよ」という話でした。代理人からその話をいただいて、ガンバからオファーが来たとなったら断る理由はありません。
しかもガンバの始動が1月8日だったんですよ。当時は岐阜で延長する雰囲気だったんですけど、俺は環境を変えたいと思っていました。いま考えたら別に環境を変えても俺が変わらなきゃ意味がないと思うんですけどね。そのときは「この環境から逃げたい」という気持ちが強くて、ずっと岐阜の話を先延ばしにしていました。
ガンバの始動が1月8日で、1月5日にオファーが来ました。そのとき俺は東京の実家にいました。1月5日に代理人から「オファーが来たよ」と言われて「行きます」と返事して、翌日に岐阜に帰って引越し業者を呼んで、1月7日に全部荷物をまとめて引っ越し業者にとりあえず1週間預かってもらって、1月8日には朝3時くらいに家を出ました。
2時間くらいかけて吹田に向かって、1月8日に無事到着。朝に目が開かない状態で練習していました。「ここで俺は絶対キャリアをもっと良くするんだ」とうれしくなっていましたね。本当にトップで出るつもりでガンバに乗り込みました。
――2020シーズンにU-23(J3)でリーグ戦30試合に出場しました。自信になりましたか。
自信を付けたというより疑いようのない積み重ねがありました。それが自信になったのか分からないですけど、自分の背中を後押ししてくれた。
1月8日に8対8のミニゲームをやったときに、森下仁志(※当時のガンバ大阪U-23監督)さんが終わった後に俺のところに来てくれて、「このポテンシャルでこのクオリティー持っていて、なんで岐阜で出られなかったのかまったく分からないけど、何か必ず理由があるはずだからこの1年でしっかり直してもっと上の舞台で活躍できるように」と言っていました。そのときに「この人について行こう」と思いましたね。仁志さんがずっと「大丈夫、お前ならできるから」と1年間言い続けてくれていまの俺があると思います。