2023年、苦しいシーズンを過ごしながら徐々に本来の強さを取り戻し、最後には天皇杯優勝という“花”を咲かせた川崎フロンターレ。

加入2年目の瀬古樹は後半戦、脇坂泰斗、橘田健人とともに中盤で欠かせない戦力となり、プロとして自身初のタイトルを手にした。

2020年に明治大から横浜FCでプロ入りした瀬古。昨年末に26歳の誕生日を迎えた彼は、小学校から高校までを東京の“街クラブ”である三菱養和SCで過ごした。

また、進学した明治大では4年次の2019年、大学サッカー史上に残るチームの一員として「5冠」を達成している。

現在、川崎に欠かせない選手となった瀬古は、どのように選手としてのキャリアを歩んできたのか―。

Qolyによるインタビュー前編では、現在日本代表として活躍する中村敬斗を輩出したことでも知られる三菱養和SCから、明治大、プロ入りした横浜FC時代までのキャリアを紐解く。

「高体連という感覚は全然なかった」三菱養和SC時代

――小学生の時に三菱養和SCの巣鴨に加入しました。三菱養和を選ばれたのはどういった理由からでしたか?

養和に入る前、僕はマリノスのプライマリーに1年間通っていました。そこへ通うのに僕の実家からだと少し時間がかかり過ぎてしまうことと、朝…土日だと小学生は一番早い時間にやると思うので、なかなか通うのが厳しくなってしまう状況だったんです。

そこで、(三菱)養和を紹介してもらい移ったという形でした。

――そのまま高校卒業まで、三菱養和一筋でした。高校生だと選手権なども大きな目標になりますが、ずっと養和でプレーされた理由は?

高体連という感覚は全然ありませんでした。

養和のジュニアからジュニアユースに上がる時も、クラブチームとしてJクラブと同等の扱いというか雰囲気がありました。トップチームはないかもしれないですが、ユースに上がる時も当時はU-18プレミアリーグでプレーできるというのがありました。

養和を離れる選択をする感覚が全くなかったので、ジュニアユースに昇格できる、ユースに昇格できるという話をいただいた時にはもうそれをすんなり受け入れるというか、逆にありがたいことだなと思って養和でずっとプレーすることを選んでいました。