地獄の海外生活を過ごして

弟ビスマルクは海外クラブでのプレーを模索していた。日本でのプレーは絶望的であり、新天地は海外しかない状況だった。

「代理人にクラブを探してもらって何とか他のチームにつながりました。ただ、そこからが長かったですね」

ビスマルクは東京都で生まれたが、日本国籍を保有していない。フィリピン人の母親の同国籍とガーナ人の父親の同国籍しか持っていないため、日本に滞在するにはビザが必要となる。クラブとの契約を解除したビスマルクは労働ビザで日本に滞在できない状況となった。

盛岡ではサイドバックでプレーしたビスマルク

「僕は外国人なので21年間毎年ビザ更新してきましたが、(盛岡との)契約が解除になってビザの更新ができなくなりました。いまでも覚えていますけど、(2023年)5月26日ですね。それまで何回も入管に行って滞在期間をちょっと延長させてもらっていましたけど、入管の人たちにも『申し訳ないですが、この日以上はダメです』と言われました」と、日本からの出国を強いられた。

母の母国であるフィリピンへ渡ったビスマルクは交渉中のクラブが獲得に動いているか、動いていないか分からない状況にあった。そのため両親からもプロを諦めて、フィリピンの大学進学や就職を勧められた。

「日本で(新クラブ入団に必要な)ビザの手続きはいろいろと終えましたけど、プロセスがあまりにも長かった。交渉中のチームとも連絡を取りながら、ビザの取得のために準備していました。フィリピンへ最初に行ったときは、母の家がマニラにあるのでそこで2カ月半暮らしました。ただ日本とフィリピンはカルチャーがかなり違うのできつかったですね」と振り返った。

フィリピンには毎年親と渡航していたが、それでも生活をするとなると話は別だ。義理の兄と共同生活をしていたビスマルクは、自分が犯した罪の重さ、カルチャーギャップ、そして新クラブとの交渉によるストレスで精神的に弱っていった。

「地獄でしたね。(罪を犯してから)8カ月間は先が見えなかった。『このまま俺はどうなるの』と思っていましたよ」