衝撃のシンガポール行きもあった苦難のキャリア

2023年シーズンにリーグ戦19得点でJ3得点王に輝いた小松だが、松本山雅でのキャリアは紆余曲折と言っていいものだった。

期限付き移籍で金沢、レノファ山口を渡り歩き、シンガポール移籍の可能性もあり、順風満帆とはいかなった。

J3得点王になっても、思い描いたオファーは届かなかった。

松本時代を振り返る小松

――2019年シーズンは高校生のときに練習参加した金沢に期限付き移籍しました。

「金沢に移籍してすぐ開幕から試合に出て、すぐスタメンになれて、プロとしてのキャリアをようやく始められました。松本山雅で(試合に)出られないシーズンでしたけど、いざスタジアムの上から観ていても、『俺だったら点を取れる』という自信だけはありました。早い段階から『来年どこかにレンタル移籍したいです』と代理人に言っていました。そのときに金沢と山口から声をかけていただいて金沢へ行きました。

第3節で初スタメンに入って初ゴールを決めることができました。そのときは『やっぱり俺はいける』と思ったことをすごく覚えています。ただ僕自身もそのときは若くて、サッカーに対して真摯じゃなかったところがあった。調子に乗ってしまったというか。

ハーフシーズンくらいで監督の信頼をなくして、スタメンからベンチ外になってしまったり、そのときチームでは一番か二番くらいに点を取っていたけど、(試合に)出られなくなってしまった。金沢時代はプロの世界はチームのルール、規律にしっかり寄せていかないと試合に出続ける、信頼を勝ち取るのは無理だということを痛感しました」

金沢、山口時代を振り返る小松

――翌シーズンは山口へ期限付き移籍しましたね。

「山口のときは監督が霜田(正浩)さんで、試合にはほぼ出してもらっていました。ただ僕自身は、まったく点を取ろうとしていなかったという感じでした。チームのために守備をして、走って、頑張ることがメインになっていましたね。結局試合には使ってもらえるけど、蓋を開けたときにキャリアを上に進めていくことはできなかった。なおかつ、最終的な評価も高くならないという現実を痛感しました。

当時はチームの状況も良くなくて、最下位だった。コロナ禍だったので降格はなかったんですけどね…。僕らは当時よく“ディフェンシブFW”と言っていたんですけど、守備ばっかりしているフォワードだったので、シーズン37試合に出て3得点でした。自分でもゴールというものの価値を悪い意味で高めていたというか、『点を取ることは大変だ』と思っていた。

『それでは点を取れないよね』というシーズンを過ごしていました。ただ、頑張ること、守備すること、走る部分での成長はすごく感じていて、金沢時代では試合に出られなかったけど、シーズンを通して試合に絡み続けていられていたので、毎年いろいろなものを得ていました」

――J2から松本が落ちた2023年シーズン、J3で19得点と得点を量産しました。ここに至るまでの努力や工夫を教えてください。

「山口に2年間いましたけど、最後のシーズンは渡邉晋(すすむ)さんが監督で、シンプルなサッカースタイルに僕はまったく合っていなかった。技術があるタイプではないので、すごく難しさを感じて、そのシーズン半分くらいしか試合に出ていませんでした。

その後、松本山雅に帰りましたけど、そのシーズンはJ3で初めて戦って、ほぼ試合に出してもらって、シーズン(リーグ戦)5点で終わってしまった。そのときで松本山雅との契約が終わりだったんですよ。だいたい試合にも出たし、点を取った数でいうとチームで2、3番目くらいでした。だから自チームで『ある程度試合に出て活躍したから多少年俸も上がったりするかな』という期待を持っていました。ただシーズンが終わってからの2022年の面談では減俸もされ、なおかつ来年1年延長はしていただいたんですけど、その1年を『シンガポールに行かないか』と言われました」

衝撃のシンガポール移籍を振り返る小松

――シンガポール移籍!?そんなことがあったんですね…。

「ゲイラン(・インターナショナルFC)というクラブなんですけど、松本山雅が提携しているんですよね。そこに行かないかと強化部から言われたときに、たぶん誰もがそれを聞いたら1年で契約が終わって、それで終わりだなというイメージがわくじゃないですか。権限はこちらにあったので、『行かない』という選択を最終的には取った。

子どもが(奥さんの)お腹にいたので、さすがに海外に行く選択ができなかった。それ(シンガポール)を聞いたときは、結構ショッキングでしたね。そのときの目標で言えば、松本山雅で少し出てJ1のプレーヤーになれればいいかなと。そこで『このままじゃまずい』と死にそうなくらいの危機感を抱きました。当時監督だった名波(浩)さんがその年で退任して、最後にあいさつへ行ったとき『メンタルだぞ、メンタルが変わったら変わるぞ』と話をしていただきました。

それでメンタルトレーナーを2022年12月に付けて、一気に変わったのはそこからです。ゴールに目覚めて、ゴールというものの価値観がいい意味で低くなって、ゴールこそが自分の最大の生きる喜びくらいまでいったのはそこですね。

生活も180度ガラッと変わって、24時間すべてをサッカーのために費やすようになりました。そのタイミングでまた霜田さん(2023年シーズンに松本山雅監督就任)と出会って、もう点を取れるシーズンというか、毎試合『きょうも取れる』というメンタリティでプレーできるようになりました」