2011年3月11日午後2時46分—。三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の国内観測史上最大の巨大地震が発生し、太平洋側を中心に激しい揺れが襲った。地震によって発生した津波は太平洋側の沿岸部都市を飲み込み、沿岸部の都市が壊滅的な被害を与えた。
人的被害は災害関連死を含め、死者1万9765人、行方不明者2553人と東日本一帯に甚大な被害をもたらした。
日本代表専属シェフだった西芳照(よしてる)シェフは当時、Jヴィレッジ(福島県・楢葉町、広野町)にいた。
震災により炉心溶融(ろしんようゆう、メルトダウン)など深刻な事故が発生していた福島第一原子力発電所とJヴィレッジの距離は約30キロメートル弱と危険な状況であったが、西シェフはある決断をした。
インタビュー前編は西シェフが体験した東日本大震災に迫る。
(取材・構成・撮影 高橋アオ)
日常が崩れたあの震災
Jヴィレッジでランチタイムを終えて休憩に入った西シェフは施設外で一服しながら、仙台へ買い物に行っていた奥さんと電話している最中に激しい揺れに襲われた。
「仙台から(奥さんと)『あ、地震だ』『キャー』と言っていてね。15秒くらい後にこっちも揺れだしまして、かみさんの電話が切れちゃってね…」
立っていられないほどの強く恐ろしい揺れは東北の太平洋沿岸部を襲い、阿鼻叫喚となっていた。Jヴィレッジではスタッフらが屋外に退避した。しばらくして調理場に西シェフが入ると「食器から何から飛び散って割れていて、大変なことになっていました」と職場の散々たる状況に深く肩を落とした。
Jヴィレッジは高台に立地していたため、津波による被害は受けなかった。避難所に指定されていたJヴィレッジに避難してきた住民たちと西シェフを含めたスタッフらは身を寄せ合ったという。そこでラジオやワンセグ(携帯端末でテレビを視聴できる機能)などで地震や津波の被害を知ったという。
「海のそばに住んでいるスタッフがいましたけど、(海のそばに住むスタッフの)おばあちゃんは大丈夫だったからホッとしましたね。うちの親父とお袋も海のそばに住んでいたので、連絡が取れませんでした。ただ(家は)ちょっと小高い所にあったので、津波は家の100メートルくらい下まで来ましたけど、何ともなかったです」と当時の状況を振り返った。
西シェフは震災の翌日連絡が取れなかった奥さんを迎えに、仙台まで車を走らせた。海岸線は津波の影響で通行止めとなり、関越道を経由して東北道から目的地へと向かった。
「高速の料金所には誰もいなかったけど、通れるようになっていました。車も走っていなかったですね。夜中2時ごろに仙台に着いて、かみさんはこのままいつでも逃げられるように懐中電灯を枕元に、靴を履いて寝ていました(苦笑)」
ガソリンの給油も規制されており、一度に20リットルしか給油できなかったという。「2回に分けて入れて満タンにしました」と苦労しながら福島へ戻った。安否不明だった両親も余震の影響で近隣の瓦が落ちる状況だったため、畑に軽トラックを止めて就寝するような状況だったという。
「(畑に避難していた両親とは)連絡が取れないわけですよね(笑)。どこに行っているのか分からないもの」と当時を振り返るも、両親の無事に安堵(あんど)したという。
Jヴィレッジでフライパンを振るっていた日常があの震災によって崩れてしまった。福島第一原子力発電所の事故などにより復旧の目途も立たなかったため、西シェフは東京へと避難した。