1960年代から70年代にかけて、日本サッカーと「世界」を近づけたことで知られる釜本邦茂氏。

1968年のメキシコ五輪で大会得点王に輝き、日本を初の銅メダル獲得に導いた伝説のストライカーが2025年8月10日、81歳でその生涯を終えた。

日本サッカー界の発展に多大なる貢献をした同氏の訃報に、多くのお悔やみの言葉が寄せられている。その一部を紹介する。

日本サッカー協会(JFA)会長 宮本恒靖氏

「釜本邦茂さんの訃報に接し、お悔やみを申し上げます。

1968年メキシコオリンピックでのゴールや日本代表で歴代最多の75得点が示す通り、釜本さんは不世出のストライカーでした。同時に私のキャリアにおいて多くの影響を与えてくださった方でもあります。

私がガンバ大阪ユース一期生としてプレーし始めた頃、その母体となった釜本FC出身の選手たちが持つ『ボールを止める・蹴る』技術の高さに驚かされました。釜本さんは指導の際にサッカーのベースとなる基本技術を大切にしていらしたと聞きました。その後プロになってからも釜本さんのキックの強さや正確性にまつわる逸話を耳にし、私も良い選手になろうと精力的にキック練習に励みました。

JFA副会長を務められていた時期はちょうど私が日本代表でキャプテンを務めた頃と重なり、ピッチの外側からチームをサポートしていただきました。また、私の引退後は、釜本さんが主催していた『釜本サッカー教室』に何度かゲストとして呼んでいただきました。2014年のことだったと思いますが、東京の駒沢競技場で『50年前の東京オリンピックの時にここでやった試合に出ていたんだよ』と、集まった小学生200名に話されました。生涯を通じて日本サッカーの普及、振興に努められている釜本さんのお姿に多くのことを学びました。

サッカー日本代表はいま、釜本さんが点取り屋として君臨し、銅メダルを獲得されたメキシコオリンピック以来の快挙を目指し挑戦を続けています。釜本さんに良い報せをお届けできるよう邁進してまいります。

釜本さんの生前のご功績に敬意を表すとともに、ご冥福を心よりお祈り申し上げます」

JFA 名誉会長 田嶋幸三氏

「釜本邦茂さんの突然の訃報に接し、ショックを受けています。療養されているのは知っていましたが、こんなに早く亡くなられるとは思ってもいませんでした。

釜本さんは私にとって憧れであり、本格的にサッカーを始めた中学生の時から常に目標にしていた選手でした。大学1年生で臨んだ関東大学リーグ、われわれ筑波大学は4位でしたが、7試合で7得点を挙げて得点王になりました。1年生での得点王は釜本さん以来だと聞き、うれしく、そして誇らしく思いました。私をはじめ、多くの選手にとって釜本さんは常に目指すべき存在で、誰もが釜本さんを目標にサッカーに打ち込んでいたと思います。

今から半世紀以上も前に世界と伍して戦い、日本サッカーの存在を世界中に示してくれた名ストライカー、それが釜本さんでした。恵まれた体格とスピード、ゴールへの嗅覚…。日本人離れしたダイナミックなプレーは、今も多くの人々の目に焼き付いていると思います。
日本サッカーの星がまた一つ、消えてしまいました。

釜本さんの長年にわたるご功績に心からの敬意と感謝を表します。ありがとうございました。安らかにお眠りください」

JFA 相談役 川淵三郎氏

「稀代のストライカー、釜本邦茂さんの訃報に接し、心から哀悼の意を表します。

そして、長い療養生活を深い愛情をもって支えてこられた奥さまに心からお悔やみと感謝を申し上げます。

東京オリンピックの前年、東大検見川で行われた古河電工と山城高校との練習試合で初めて釜本選手と一緒にプレーをして、日本人離れしたそのスケールの大きさに驚かされた記憶があります。既に釜本選手を見ていたクラマーコーチからは熊のような選手がいると聞いていましたので、のっそりしたでっかい選手だろうと思っていました。ところが、いざ対戦してみると、そのスピードと本能的なゴール感覚たるや!『えっ、これが高校生なの?』と度肝を抜かれました。

東京オリンピックを控え、5カ月にわたる選手選考が行われました。その東大検見川での合宿でも日に日に目に見えて上達していく釜本選手に驚かされました。後にも先にもこんな経験はありません。現役引退後、“釜本2世”と謳われた選手は何人も出てきましたが、半世紀たった今も彼に近づいた選手はまだ現れていません。“不世出の選手”という言葉がぴったりな釜本さんでした。

ご冥福を心よりお祈り申し上げます」

Jリーグチェアマン・WEリーグチェア 野々村芳和氏

「日本サッカー界の大先輩である釜本さんの訃報を、大きな悲しみとともに伺いました。

私が言うまでもなく、釜本さんは、日本サッカーがまだプロ化する前、これから国際競争力をつけていこうとする草創期において、比類なき活躍によってその発展を牽引し、数々の歴史的記録を樹立した偉大な先駆者です。

1968年メキシコオリンピックでは日本をアジア初の銅メダルに導き、釜本さんは得点王に輝きました。国際Aマッチにも76試合に出場し75得点を記録。現在も最多得点記録は誰にも破られていません。ヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪)では202得点を挙げ、7度の得点王として日本サッカーリーグを牽引しました。常にフィールドで放つ圧倒的な存在感は、日本サッカーの可能性を世界に示し、プロリーグの夢を育み、後のJリーグやWEリーグの創設の原動力となりました。

悲願のJリーグ開幕に際しては、釜本さんはガンバ大阪の初代監督として、厳しい環境でクラブのプロ化の基盤を築き、同時に関西でのプロサッカーの文化の礎を築かれました。女子サッカーとの関わりは多くは語られていませんが、母校の大学の女子サッカー部が関西地域で試合を行う際にはみかん箱を抱えて必ず視察に出向くなど、女子サッカーの発展も心から願っておられたと聞いています。

その後も日本サッカー協会副会長や2002年FIFAワールドカップ日本組織委員会の理事などを通じて日本サッカーの発展に尽力され、選手や指導者を引退されてからも放ち続けた強烈な存在感は、年代を超えサッカーファミリーの胸にいつまでも『不世出のレジェンド』として深く刻まれています。

釜本さんが安心してお休みになられますよう、JリーグとWEリーグもまた、ともに理念の実現に向けて手を取り合い、日本サッカーのさらなる発展に尽くしたいと考えております。

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どうか安らかな眠りにつかれますよう、心よりお祈り申し上げます」

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