中田浩二がスパイクを脱ぐ。12月3日、この悲報が私たちのもとに届けられた。今回の「鹿島リポート」では、長年に渡って鹿島アントラーズを支えてきた男について語らせていただきたい。
・若かりし頃から活躍
中田は帝京高校時代からその名を轟かせていた。1998年の全国高校サッカー選手権では、キャプテンとしてチームを牽引。決勝では、現在のチームメイト・本山雅志を擁する東福岡高校と対戦し、雪の中での名勝負を繰り広げた(結果は準優勝)。
高校卒業後は鹿島アントラーズに入団。同期には本山、曽ヶ端準、小笠原満男ら現在のチームを引っ張るメンバーが揃っていた。いわゆる「79年組」である。ほどなくしてレギュラーに定着すると、2000年には日本代表に選出される。
当時の代表を率いていたのはフィリップ・トルシエ。「フラット3」と呼ばれる3バックの使い手だ。その「フラット3」の左ストッパーとして起用されると、高精度のフィードと優れた攻守のバランス感覚で不動の地位を築く。2002年の日韓W杯では全4試合に出場し、チームのベスト16入りに大きく貢献した。
・欧州挑戦と鹿島復帰
2005年には、恩師トルシエ率いるマルセイユへ移籍。当初はチャンスを得ていたが、トルシエが解任されたこともあって出場機会が激減するなど、苦しい時期を過ごした。
翌年、ドイツW杯へ向け出場機会を求めた中田が新天地に選んだのはスイスの強豪・バーゼル。センターバックのレギュラーに定着し、W杯メンバーにも選出された。バーゼルでは、チームのリーグ優勝、国内カップ戦優勝に貢献するなど、マルセイユ時代のうっ憤を晴らす活躍を披露した。
そして2008年、古巣の鹿島へと復帰する。本職のボランチだけでなく、センターバック、左サイドバックをハイレベルにこなすマルチロールとして、精神的支柱としてチームを支えた。34歳となった2013年シーズンには、左サイドバックとして円熟味のあるプレーを披露。世代交代が進むチームに安心感をもたらした。
しかし、2014年シーズンはジュビロ磐田から加入した山本脩斗の存在や昌子源、植田直通の成長もあって、なかなか出番に恵まれず。リーグ戦では3試合の出場にとどまり、引退を決意した。