武蔵君から、1984年の暮れ辺りから「これらの状況をブラジルでぜひ直接見るべき」と進言されていた私は、当時の専務取締役に直談判。50枚に及ぶ出張を申請するレポートを作成、ようやく現地へ向かうことができたのでした。それが私の初めての海外出張でもありました。

当時のサンパウロFCには多くの代表クラスの選手がいました。ブラジル代表が8人、ウルグアイ代表が1人。そうそうたる顔ぶれでした。

そして、私のブラジル訪問後、カレカから武蔵君を通じて“おしかり”を受けたのです。

それは思いもよらない、本人からのミズノとの契約希望だったのです。「なぜ、ブラジルまで来たのに私と契約しないのか?」というものでした。

カレカは1982年に行われたスペインワールドカップのメンバーでもあったのですが、大会直前の合宿中にケガにより最終メンバーから漏れるという不運な出来事がありました。

その後、原因不明の足痛に襲われ、長きにわたり試合は勿論、トレーニングもままならない状態が続きました。

しかしある日、アパレシーダというブラジルカトリックの総本山の教会がある街で行われた地元チームとのプレシーズンマッチで、武蔵君から入手したミズノのスパイクを初めて履き、後半から出場して見事2ゴールと活躍したのです。

試合後、彼曰く、足の痛みをまったく感じず、2ゴールを挙げることができた、神から授かったシューズであると武蔵君に語ったそうです。

そのような経緯もあり、カレカはミズノとの契約を望んでいたのです。

人の繋がりは本当に大切であることを実感しました。

※こちらがカレカが初めて履いたミズノのスパイク。

安井氏「1986年大会のブラジル代表合宿所で、使用しているスパイクについての意見交換、新しいスパイクを納品した時の写真です。合宿所へ入る際、ゲートで止められましたが、カレカへの納品があると警備員へ説明。日本人であったことで、遠くからわざわざ来ていると思ったのか、アポなしで合宿所へ入ることに成功しました。ゲートにはファンが何千人もいて、当日は報道陣もシャットアウトしていたのでなぜ、日本人が入れるのかとヤジが飛んでいたのを覚えています。ほぼ恨まれていました(笑)」

安井氏「1988年、ナポリが来日した際に滞在ホテルにて、新しく開発中のスパイクについて意見交換を実施。カレカは日本代表との試合でも大活躍しました」