スペインでキャリアを始め、モンテネグロで頭角

当時スペイン5部CDラティーナへ加入した山本は、1シーズンで31試合8得点を記録。その後はプロとしてプレーするために、東欧のモンテネグロへと活躍の場を移した。

――5部のラティーナだとアマチュア契約になりますよね。生活や適応は大変じゃなかったですか。

「いま思うとすごく大変でしたけど、当時は中川風希ともう一人同年代の人がいたから、チームは違いますけど、その3人がすごく仲良くてみんなで一緒に頑張っていました。

山本の1学年上で高校、スペインで互いに高め合った藤枝MF中川(J1横浜F・マリノス時代、Getty Images)

もちろんお金は全然ありませんでしたけど、親に仕送りをしてもらいながら、休みの日はみんなでサッカーをしに行って、そういう生活を1年間続けて楽しかったですね」

――スペインは下部リーグでも選手はうまいと聞きますけど、5部はいかがでしたか。

「レアル(・マドリー)Bにいた選手が一人チームメイトにたまたまいて、そういうレベルの選手と初めてやったんですけど、すごくうまかったですね」

――日本とスペインの違いはどこが具体的に異なりますか。

「いまは日本のサッカーもレベルが上がってきているので違うと思いますけど、当時(の日本)は『とにかくパスを回す』『取られないようにする』『安全なところにパスをする』というのが自分がやっていたときのイメージでした。

スペインはパス回しはうまいんですけど、勝負に行く、仕掛ける部分は『あ、こんなに取られるリスクがあるのに行くんだ』というプレーがありました。一人、一人の個の主張というか、ボールがほしいときの声の出し方や、ミスしたときからの悔しがり方、負けたときのイライラしている感じはまったく違うなとその当時感じましたね」

――2016年にモンテネグロへ渡り、ルダル・プリェヴリャに加入しました。どのような経緯で移籍されましたか。

「(自身が契約していた)ユーロプラスにもともと所属していた代理人がいて、その人が(もうユーロプラスを)抜けていたんですけど、まだつながりがありました。

その人がモンテネグロ人なんですよ。日本語を喋れてすごくペラペラなんですけど。(その事情で)モンテネグロとのつながりがあったので、そこで最初にトライアウトへ行きました」

――ルダルはリーグ2度制覇している強豪ですね。レベル差などは感じましたか。

「当時は優勝していて強かったです。正直1年目はこのレベルに付いていくのに精一杯でした。(試合に)出ても何とか付いていって、こなせたらいいなというレベルの違いがありました」

――文化面や生活などは大変でしたか。

「すごく大変でした。スペインではプロじゃなかったのもあるんですけど、みんなが助けてくれたり、チームメイトが仲良かったです。

モンテネグロはもっとさっぱりしていて『チームメイトはチームメイト』みたいな感じです。仲がいい人同士はいいんですけど、特に外国人は下手だったり、ミスでもしたら文句をずっと言われる環境でした。

でもスペインはお給料をもらえなくてお金もまだ全然ない状態でした。モンテネグロだと最初の契約はほんの少しだったんですけど、住むところもタダで、ご飯もチームから出る状況でした。スペインから行った身としては『ありがたいな』というのはありました」

――その次の移籍先がペトロヴァツ、こちらも名門チームですよね。

「最近は頑張っていますね。自分が入った当時は下のほうを争っているチームでしたが、そこは監督が良くしてくれてチームにはいい思い出があります」

山本が所属したペトロヴァツのホームのスタディオン・ポド・マリム・ブルドム(Getty Images)

――こちらにはどういう経緯で移籍しましたか。

「1年目のチームが正直に言ってあまり財政面というかチームの組織的にも良くなかったんですね。

その次の年に選手がいなくなるという流れで自分も抜けてという感じです。特にこれだからというのはなくて、チームの流れというか状況的にみんな抜けて、そのうちの一人が自分だったという感じです」

――ペトロヴァツでは7得点を決めています。ポジションはどこでしたか。

「左ウィングをやっていたんですけど、どんどん中に入っていって自由な感じでやっていました」

――いまのスタイルとは違いますよね。最近の試合を観ると、中盤でデュエルをしてチャンスがあれば上がっていくスタイルという印象です。

「もう全然いまはポジション自体が違いますね。いまはどちらかというとミッドフィルダーで後ろにいて、たまに上がっていくみたいな感じですね。

当時はウィングでずっと前に残って攻撃するという感じでしたね」