1950年代にフランスのジャーナリストであったガブリエル・アノが創設したバロンドール。今もなお「サッカー界でもっとも栄誉ある個人賞」としての権威を持っているタイトルだ。

ただ、投票によって決められるため、しばしば小さな不公平をもたらすこともあり、最高の選手が見落とされるケースも。

今回は『Sportsmole』から「バロンドールを獲得するはずだったが、獲得できなかった5名の選手」をご紹介する。

1956年:アルフレド・ディ・ステファノ

当時のクラブ:レアル・マドリー

代表:スペイン

1957年、1959年にバロンドールを獲得したアルフレド・ディ・ステファノ。レアル・マドリーの伝説的な選手として知られる彼であるが、実は1956年にもトロフィーに近づいていた。

当時29歳だったディ・ステファノは、1955-56シーズンに全公式戦で29ゴール、1956-57シーズンに43ゴールを決め、ヨーロッパカップも制覇した。

しかしながら、この1956年にバロンドールを獲得したのはスタンリー・マシューズであった。それは世界的にも奇妙な選択だと話題になり、事実マシューズはイギリスの表彰「FWA年間最優秀選手賞」でもトップに選ばれなかった。

そしてこの悔しさを抱えたディ・ステファノは、次年度にレアル・マドリーを再びヨーロッパカップ優勝に導き、圧倒的な得票数で1957年のバロンドールを獲得している。

1972年:ゲルト・ミュラー

当時のクラブ:バイエルン・ミュンヘン

代表:西ドイツ

1972年のバロンドールを獲得したのは、西ドイツ代表の「皇帝」フランツ・ベッケンバウアーであった。しかしながら、それはチームメイトであったゲルト・ミュラーが手にしていてもおかしくはなかった。

「デア・ボンバー(爆撃機)」ミュラーは、1971-72シーズンに公式戦通算50ゴールを決めており、バイエルンのブンデスリーガ優勝に大きく貢献。

さらに1972年の欧州選手権でドイツに優勝をもたらし、ゴールデンブーツ(大会得点王)に輝く。ベルギーとの準決勝、ソビエト連邦との決勝戦でもそれぞれ2ゴールを決める活躍を見せていた。

しかしながら、バイエルンでも代表でもともにプレーしていた偉大なキャプテンにバロンドールが渡り、彼は自身2度目の受賞を逃している。