中田 英寿(ベルマーレ平塚→ペルージャ)

最後に紹介するのはヒデのニックネームでも知られる中田英寿である。

当時、日本代表の選手がヨーロッパでプレーすることは非常に珍しいことであった。特にその最高峰と言われていたのがイタリアのセリエAで、三浦知良がジェノアでプレーして以来、日本人はプレーするチャンスを与えられなかった。

1998年のフランスW杯で中田は髪型を金髪に染め、プレーしている時に目立つような状況で大会に臨んだ。フランスW杯ではチームは0勝3敗と勝つことはできなかったが評価を高めてイタリア移籍へとつながった。

当時のペルージャはルチアーノ・ガウッチ以下ガウッチ一家で仕切るワンマンクラブで、監督や選手の入れ替わりが多いクラブであったが、中田はその中にあって1年目の開幕戦ユヴェントス戦で2ゴール、以降中心選手として1シーズン半プレーした。

ペルージャでは4-2-3-1システムのトップ下を主戦場とし、1年目は右のジャンルカ・ペトラッキ、左のミラン・ラパイッチ(クロアチア代表)らと共にカウンターサッカーを敢行。「中田がボールを持てば全員が全速力でオーバーラップをする」というチーム戦術の柱となった。

当時、中田のスルーパスは非常に速く、スピードのある選手でないと追いつけないほどのもので「キラーパス」と呼ばれるなど流行語にもなった。

また、当時のペルージャは長髪をなびかせ強引にドリブルを繰り返すラパイッチ、ぴちぴちパンツのGKアンドレア・マッツァンティーニら個性的なメンバーが多かった。

中田はそれ以外にも若き日のマルコ・マテラッツィ(イタリア代表)、ジョヴァンニ・テデスコ、イブラヒム・バ(フランス代表)、クリスティアン・ブッキといったメンバーらとプレーした。

2000年1月にローマへ移籍してからはフランチェスコ・トッティ(イタリア代表)とライバル関係になりながらも短い出場機会で結果を残した。カフー(ブラジル代表)、ヴィンチェンツォ・モンテッラ(イタリア代表)、ガブリエル・バティストゥータ(アルゼンチン代表)らと共にローマにスクデットをもたらしたことは言うまでもないだろう。

今では当時のチームメイトが多く監督業を行っており、モンテッラ、ディ・フランチェスコ、ブッキらの評価は特に高いものとなっている。

まさかの“ヒデ”登場。★5中田英寿を獲得せよ

現役から離れサッカー以外の分野で活躍の目立つヒデがサッカー界へ帰ってきた?能力はあのキラーパスあり。ゲーム内ならイニエスタにもメッシにもパス出せちゃいますよ!!

公式サイト:http://sakatsuku-rtw.sega.com/

【厳選Qoly】なぜ?日本代表、2024年に一度も呼ばれなかった5名

ラッシュフォードの私服がやばい