鹿島は特別なクラブ
これまで土居は鹿島でリーグ戦332試合、国際試合を含めた公式戦463試合に出場した。多くの人間が日本屈指の名門に骨を埋めるものだと思っていただろう。だが今夏に故郷のクラブへ電撃移籍—。
決してクラブへの忠誠が薄れたわけではなく、愛が冷めたわけではない。古巣への愛は熱く、そして形容する言葉が見つからないほどに深い。
――鹿島に残る選択はありませんでしたか。
「もちろんありました。契約もまだ来年まで残っていましたし、残ろうと思えば残る選択肢もありました。鹿島からは止めてられました。『冬までに1回考えてくれ』と当たり前のように言われました。
いまこの瞬間を振り返れば(妻の)出産もあったので、『良かったのかな』と思いますけど(苦笑)。なので数カ月前の自分はなぜそう決断したのか分かりません(笑)。
いま思ったら(第2子の出産を控えた)奥さんは本当に大変でしたし、『すごい時期に決断しちゃったな』という思いもありますけど、それが自分らしくて良かったのかもしれません。自分が決めたことなので悔いはないです」
――改めて鹿島のクラブ、サポーターへの思いを教えてください。
「僕が若かったころは海外移籍するにあたって、タイトルを取って一人前になってから移籍することが暗黙の了解という考え方がありました。ちょっと試合に出たからといって移籍するという考えを持っていなかったです。
鹿島が好きで、鹿島が優勝するためにすべてを捧げてきた鹿島時代でした。学生時代はなかなか全国大会で優勝する経験がなくて、自分が試合にレギュラーで出られるようになってからも『優勝することは、ないだろうな』と思っていました。だけど一応タイトルにすべて関わらせてもらって、『このクラブは特別なんだ』と思いましたね。
僕が優勝させたと思っていないですけど、鹿島アントラーズはそういう力があるクラブで、入団して力になれたことはすごく光栄でした。
ACL(AFCチャンピオンズリーグ)も僕らが優勝するまで取れてなかったことは『何で取れなかったんだろう』というか、僕らより先輩方のほうが素晴らしいサッカーをしていたと思います。
鹿島で取れるタイトルをすべて取りましたし、クラブW杯は優勝できなかったですけど、準優勝もできて素晴らしい鹿島時代を過ごさせてもらいました。
目の前で他のクラブに優勝されるという経験も何度もしました。悔しくて辛い時期もファン・サポーターの皆さんが一緒に乗り越えてくれたから、輝かしい美談になるような話がいまできると思っています。
“常勝軍団”なんて言われていましたけど、いいことばかりじゃなかった。もちろん辛いこと、全然勝てない時期もありました。試合に出られない時期もありましたし、ケガもしました。そういう経験も含めてアントラーズで育ててもらったというところがあると思っています。
鹿島でもうやれることを全部やったといいますか、取れるタイトルもすべて取りました。(移籍の理由は)そこもちょっとあったと思います。
鹿島では『本当に精一杯やったな』という思いがあるので、また違った環境で第2のサッカー人生をスタートできればという思いで山形に行きました」
――土居選手が過去にベガルタ仙台ジュニアユースを受験したという話を聞きました。山形のジュニアユースを受けませんでしたか。
「(当時)12歳の少年でしたから、どこに行くか迷っていましたね。何が正解なのかまったく分かりませんでした。
山形県選抜の集まりが多くなってきたときに、自チームの監督さんだけじゃなくていろんな少年団、クラブチーム、サッカー協会の指導者の方と接する機会が多くなりました。自分のチーム以外の人と喋る機会が多かったときによく言われていたことが『聖真は山形に留まってはいけない』とすごく言われましたね。
それが印象に残っていて、『僕は山形にいちゃいけないんだ』と小さいころから自分なりに思っていました。
いろいろ遠征もしていましたから、そのころはマリノスが強くて、マリノスのアカデミーとよく練習試合もしていました。そこで『ああ、こういう世界もあるんだな』と肌で感じたときに、あの言葉が刺さったというか。
山形では『敵なし』といいますか、王様でやっていたから『外に出るということは、こういうことなのかな』と思っていました。なんで仙台を受けたのかあまり覚えていませんが、何か気に入ってました。『受かったら行くしかない』という感覚が少しありました。学校も住むところも決まっていたんですけどね。
ただ小学生最後のフットサルの全国大会があって、それがチビリンピックという大会でした。そのときに対戦はしていないんですけど、同じ大会に出ていた鹿島ジュニアの監督さんで、現在はFC東京のアカデミー(コーチ統括を)でやっている宮本(貴史)さんから『セレクションを受けないか』と僕のチームの監督さんが言われたみたいです。
最初は嘘だと思っていたんですけど、こっちから売り込んでいるんだと僕は勝手に思っていて(苦笑)。そしたら『受けに来てほしい』ということで(セレクションに)行ったら受かりました。(それから)家族会議が開かれまして、『どうするんだ』といわれて、仙台だったら親戚や友達とも1時間くらいで会えるけど、鹿島だとそうはいかない。しかもお父さんは仕事を辞められなかったので、お母さんだけ一緒に行くことになりました。
(親から)『(鹿島へ)行けるの?』と聞かれて、号泣しながら『(鹿島に)行きます』と伝えましたね。仙台のほうには親と一緒に断りのあいさつに行ったことをすごく覚えています」