サッカー文化が根付いた故郷
山形で過ごした12年間の大半はサッカー漬けの日々だった。そのため故郷の記憶は競技に打ち込んだ日々で占めている。
そして32歳にして帰郷した背番号88は、プライベートでこれまで堪能できなかった故郷の味などを楽しみ、自身に声援を送るサポーターの熱量に胸を打たれている。
2017年12月にJリーグ発足後では山形県出身者として初めて日本代表に選出され、通算2試合に出場した土居は、山形の人たちの期待にプレー、立ち振る舞いで応えようとしている。
――幼少期を含めてモンテディオ山形に抱いていた印象を教えてください。
「僕が従兄弟とおじいちゃんと一緒にスタジアムに行くことがありました。勝った、負けたというよりはプロ選手のサッカーを観に行っていたという印象が強いですね。
約20年近く前は集客人数何人か(正確に)覚えていませんけど、数百人のときもあれば2、3000人のときもあったと思います。それに比べて、僕が来てからはほとんどの試合で1万人前後のお客さんが入っています。試合前、試合途中、試合後のイベントもたくさんあります。率直な町の感想としては、僕が幼少期にいたときより『サッカー文化が根付いたな』とすごく感じています。
若い人でもおじいちゃん、おばあちゃんでも声を掛けてくれて、『この間の試合は良かったね』とか。『あ、こんなにお年寄りの人でもモンテを応援しているんだ。試合を観てくれているんだ』とそこで感じました。
モンテディオへの期待は昔と比べものにならないぐらい上がっていると感じています。ホーム最初の徳島戦は不思議な感覚でしたね」
――故郷のクラブでプレーすることは特別ですか。
「特別ですね。小学校6年間はサッカーしかしていなかった記憶というか。遊ぶとなってもサッカーをしていたと思います。サッカー漬けの6年間だったことを覚えているというか。それしか記憶にないという感じですね。6年間は遠征、試合の連続だったと思います」
――プライベートでは山形を楽しまれていますか。
「そうですね。なるべく行ったことのない飲食店にも行くようにしています。一つでも多く山形を感じられるように、いろいろな店に行っているつもりです。それはそれで楽しいですし、もっと知りたい思いがあります」
――鹿島のサポーター団体インファイトもすごい迫力だと思うんですけど、山形もゴール裏が青白の壁のように迫力があります。サポーターの印象を教えてください。
「本当に申し訳ないんですけど、J2(の観客者数)は少ないイメージがありました。ホームは『4、5000人、アウェイも10人くらい来ていればいいのかな』という感じだったんですけど、山形サポーターの方々はアウェイでも多く来てくれています。すごく熱量があるサポーターさんたちです。数試合しかしていないんですけど、印象付けられました」
――(亡くなった祖父に)アジアのタイトルなどを見せられたと思いますけど、山形での思い出もあるかと思います。山形ではどういった思いでプレーされていますか。
「クラブからもそうですけど、僕が思っている以上に県民の皆さまが期待してくれている。『僕はそんな大した選手じゃないのに』と思うんですけど(苦笑)。
そうやって期待してくれたり、応援してくださっているので、それには『応えなきゃな』という思いもあります。それほどサッカーに対する熱意は、熱くなって、高くなっていると思っています。
変にプレッシャーを自分にかけるわけじゃないですけど、やれることは最大限ピッチ内、ピッチ外でもやれていれば自分のためにもなるし、皆さんのためになると感じています」
――移籍後に第2子が生まれました。山形でどのような生き様を見せていきたいですか。
「上の子はもう分かってくれているんですけど、下の子はまだ(土居がサッカー選手だと)全然認識していないです(苦笑)。下の子がサッカー選手と分かるまでもっと頑張りたいと思います」
――Jリーグ発足後では山形県出身者初の日本代表選手として出場した経験もあります。アカデミー出身だと半田陸選手が日本代表に招集されました。日本代表を目指している山形のサッカー少年たちに見本としてどのような振る舞いを見せていきたいですか。
「難しいですけど、僕は人と同じことをしたくない特徴があります。スパイクや、服の色ですら被ることが嫌でして(苦笑)。子どもたちには『普通の人と違う』というところを見せたいです。
それは私生活でも悪い意味じゃなくて、いい意味でオリジナル性があるといいますか。私生活でもプレー面でも何かちょっと雰囲気が違うとか、普通の人とプレーが違うと思ってもらえるような振る舞いができればと思っています」