飛躍的向上を見せる守備力、導いた恩師と大黒柱の存在
目に見える形で増えたのはゴールだけではない。水戸がクラブとしてのフィロソフィー(哲学)を体現している守備での貢献だ。場数を踏めば踏むほどに齋藤の守備力は向上を見せ、現在は自らのボール奪取からゴールも奪えるようになっている。
「元々は守備面をメインに指導されていた森直樹監督が就任された去年の途中からは、守備をやらないと試合には使ってもらえないので、守備を継続してやることによっての成長も感じますし、シーズンが進むにつれて良い形で出せるようになって来たと思います。
単純に“守備”と言っても自分1人だけではできないので、自分はチームの1つの駒だと考えています。ちゃんと監督の指示通りに動けているかどうかも分かったうえで、今はそこから自分で考えたり、判断したりと言った守備ができてきて、それが今はゴールにも繋がっている実感があります」
攻撃面でのドリブル突破が「リスクをかけたプレー」であるように、守備面でもリスクを考えてプレーできるようになった齋藤は守備時にも躍動している。
そんな齋藤がプロデビューを飾ったのは、森監督が就任してから5試合目となる昨季の第18節、V・ファーレン長崎戦(H)。前体制では1度もベンチ入りすら経験していなかった高卒ルーキーはその後、出場5試合目となった第24節の横浜FC戦(H)で驚愕のプロ初ゴールを挙げ、最終的にはリーグ16試合に出場した(先発は2試合)。
齋藤を大抜擢した森監督は“恩師”と呼べる存在だ。
「実はコーチ(昨年5月途中まではディベロップメントコーチ)をされていた時の印象があまりなかったんですけど、監督に就任されることになった時には自分たちの前で泣きながらスピーチをしていただきました。それが去年のJ2残留につながったように感じています。
クラブに長く在籍されていて(現役時代を含めると今季で23年目)、本当にクラブを愛している人だなと思います」
守備面を整備・強化する森監督の指導によってリーグで3番目に少ない28失点の堅守が際立つ今季だが、攻撃面では新任の林雅人コーチの存在が大きい。
長年に渡ってオランダで指導者としてのベースを築いた林コーチによる理論的なアプローチが攻撃力アップに繋がり、現在リーグ2位の45得点を挙げているチームの得失点はリーグ最多の「+17」。6月21日の第20節以降、3カ月以上に渡って首位をキープしているのも納得の数字だ。
「練習でやったことが試合でそのまま出て来たり、ミーティングでも細かく具体的な指示で選手に要求してもらえるので、分かりやすいです。反面、特に攻撃面では選手個々の持ち味を出せる“戦術的な余白”があって、それを林さんを中心としたコーチングスタッフがオーガナイズとして用意してくれているので、すごくプレーしやすい環境を与えてもらっていると思います」
ここまで齋藤が挙げた7ゴールのうち、4つはFW渡邊新太のアシストによるものだ。J2得点ランク2位の13ゴールを挙げながらも、リーグ3位の7アシストも記録する30歳の大黒柱の存在は20歳の青年にとって大きい。
「単純にゴール前でパスをくれるというだけでなく、いつもシュートを撃ちやすい形でパスをもらえていますし、アタッカーとしてゴールもアシストも量産できるのは凄いことだと思います。
しかも、それだけでなく、チームで最年長に近い選手が前線から体を張ってプレスのスイッチを入れる献身的な姿を見ていると、『自分もこの人に付いて行こう』と思わせてくれる大きな存在です。最近は自分がFWに入ることも多いので、より一層にそう感じています」
中村俊輔や西川潤と同じ経路を辿り、水戸へ
神奈川県横浜市出身の齋藤は兄の影響から4歳でサッカーを始めた。両親にサッカー経験はなかったが、幼い頃からサッカーを薦められたそうだ。
当然、“俊輔”の名前の由来は日本サッカー界のレジェンドMF中村俊輔氏(横浜FCコーチ)にあるようで、“本家・俊輔氏”にも挨拶済。「下の名前には触れられなかったです(笑)」とのことだ。
幼稚園に通う年長の頃からは地元・横浜市に拠点を置く「SCH.FC」でプレー。1つ上の学年にFW内野航太郎(ブレンビー/デンマーク1部)、MF松村晃助(法政大学3年、横浜F・マリノス特別指定選手、2027年からの正式加入内定)が在籍しており、幼少期から高いレベルの環境下でサッカーを楽しんだ。
小学校3年時からは横浜F・マリノス・プライマリーに加入し、順調に同ジュニアユースにも昇格。しかし、中学2年の終わりにはコロナ禍で世の中全体の活動がストップしてしまった。
「前年の2019年にF・マリノスのトップチームがJ1で優勝していて、あのアタッキングフットボールはJリーグや日本サッカーに革命を起こしたと思っています。
あの年は何度も現地で観ていたので、だからこそ、『ユースに昇格したい』という想いが強かったのですが、中学3年の6月頃までは活動が止まっていました。本来なら見られていたはずのユースの選考会の時期も極端に短くなってしまったので…。今考えても本当に悔しく、難しい時間でした」
ユースへの昇格が叶わなかった齋藤は神奈川県の名門・桐光学園高校に進学。横浜F・マリノスのJユースから桐光学園への進学は中村俊輔氏や藤本淳吾氏といった元日本代表も辿った経路だ。また、齋藤が入学する2年前までは当時のU-17日本代表のエースFW西川潤(サガン鳥栖)も在籍。彼もまた、F・マリノスのJユース出身だった。
「ありがたいことに多くの高校からオファーをいただきました。また、3歳年上の兄が高体連でプレーしていて、その兄が『今の神奈川県で1番強くて良い環境』と言っていたのもあって、桐光学園に決めました」
高校入学直後はまだまだ収束しないコロナ禍の影響もあったが、高校3年時にはプリンスリーグ関東2部で水戸のユースとも対戦し、インターハイ(令和5年度全国高等学校総合体育大会)では決勝進出。決勝のみベンチスタートとなり、惜しくもPK戦の末に準優勝に終わったものの、大会直後には水戸からの正式なプロ契約のオファーも届いた。
「水戸には高校3年の5月から7月にかけて2度の練習参加をしていて、プロ契約のお話はインターハイ終了直後に桐光学園の監督から聞いて初めて知りました。
実は大会中に同期入団することになるMF碇明日麻選手の水戸への加入が発表されて、彼は高校サッカー界のスター的存在だったこともあって、『2人は獲らないだろうな』と思っていたので、ホッとしました(笑)。
水戸を選んだ理由としては、まず自分がどうしても『高卒でプロになりたい』と考えていたことと、実際にオファーがあったのが水戸だけだったこと。高校時代の自分はまだまだ無名な選手だと自覚していたので、本当にありがたいお話でした。
正式加入するにあたっても、育成の業務提携で海外クラブへ練習参加に行けることや、選手をピッチ内外で育成するプロジェクトもたくさんあることなどをプレゼンしていただいて、しっかりと納得したうえで決断しました」